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初めての方へ
礼拝時間
日本語部:午前9時〜10時30分
英語部:午前11時〜12時30分
場所・住所
2031 E. Villa St. Pasadena, CA 91107
駐車場
専用駐車場はございませんが、教会周辺の道路に路上駐車が可能です。
礼拝について
神様を探している方、人生に答えが欲しい方や、教会を探している方など、誰でも参加できます。お年を召した方から子供まで、既婚者、未婚者、子供の有る無し、また人種に問わず共に礼拝しています。
礼拝は約1時間半~2時間です。35分程の賛美のパートと65分の説教になります。その他は、教会からのアナウンスメントになります。説教の前、賛美の後に献金の時が持たれますが、義務ではありません。
聖日礼拝は、日本語と英語両方の礼拝があります。イースター、クリスマスなどの特別礼拝には、日英合同礼拝かたちをとり、通常日本語でのサービスとなります。英語にての通訳をご希望の方には、礼拝前、通訳機をお貸ししています。
毎月の第一日曜日に聖餐式を行っています。
賛美のスタイル
ダヴァールの音楽はContemporary praise and worship が主になります。(Hillsong等で歌われている曲) 他に聖歌での賛美も行っております。
子供の聖書の学び
はい。日本語礼拝中(午前9時~10時半)には、教会学校があります。英語礼拝中(午前11時~12時半)には、子供クラブがあります。こどものプログラムの詳細は、こちらのページよりご覧ください。
年齢と聖書の理解を基準に、教会学校、または大人の礼拝への参加を勧めています。
礼拝後の交わり
聖日礼拝の日本語と英語礼拝の後には飲み物をご用意しております。また、礼拝後の交わりへの参加は、各自由参加となっています。
個人的な問題についてのカウンセリングを浅井牧師、または牧師婦人と希望される方は、アッシャー又はグリーターにお申し出ください。
地域による聖書の学び
教会メンバーの各家々を開放して、小人数による聖書の学びの集まり、家の教会を行っています。聖書朗読、聖書ドリルを使っての御言葉の学び、賛美、祈りの時などを設けています。各地域の家の教会のリストや詳細は、こちらのページよりご覧ください。
クリスチャンに関しての質問
クリスチャンというのは、イエスキリストが自分の罪の為に十字架で死なれ、その結果、自分の罪はもはや赦されていると信じている人の事です。良い行いや悔悟によって罪は赦されません、イエス様の十字架の恵み、そして哀れみによってしか救われる事はないと信じています。どんな小さな罪でも、犯してしまったら、地獄に行かなければいけません。それ以外の方法はないです。しかし、父なる神は、ひとり子をこの世に送らせ、全く罪のない者として、私たちの代わりに死なせ、地獄に行かせたのです。このひとり子、イエスは、私たちが本当は行くべき地獄に下り、罪の代金を払って下さいました。そして、三日目に甦ったのです。イエス様の十字架によって赦されない程重い罪はありません。でも、何故父なる神は私たちが赦される事が出来るようにひとり子を殺したのでしょう?それは、私たちをそれ程愛して下さっているからです。誰でもこれを信じ、「イエスは主」と口で告白した者はクリスチャンなのです。それだけが条件です。シンプルでしょう?
聖書に関しての質問
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです(ローマ人への手紙10:9)。
ここでは、イエスを信じて、口で告白する者が「救われる」という言葉で表現されていますが、簡単に言えば、これが普通、私たちクリスチャンが「クリスチャ ンになる」と言っている意味でもあります。心で信じて、口で告白するとクリスチャンになれるというのです。ここで注意してほしいのは、「洗礼を受けるなら ば」とか、どこかの「教会に属するならば」とか、もっと言えば、「教会に通うならば」という条件もついていないことです。これはちょっと驚きですが、これ が真理です。人間の救いは、非常に霊的なものであり、あなたは、自分と神様との個人的な関係のみで救われます。親がクリスチャンであるとか、教会という建 物に通うとか、クリスチャンの何かの行事に参加するとか、そういったものはみな、あたたの外側の上辺のことであって、それによって、あなたの罪が赦され、 あなたの心が変わり、あなたの人生が変わるわけではありません。クリスチャンになるとは、今までの生き方を止め、キリストにある新しい人生を歩むことで す。それは、神の救いの力なくしてはできないことです。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(第2コリント5:17)。
天国と地獄があって、人間は死んでからそのどちらかに入れられる、というのは、世界中どこの文化の人たちも、またいろんな宗教の人たちも信じているようで す。しかし、それを数学や科学のように証明することは、残念ながら不可能です。ただ、聖書に書かれていることを、そのまま述べることしかできません。そし て、それを信じるか信じないかは、あなたにかかっています。
聖書は確かに、この物質の世界で生きる人間が死んでから入る死後の世界について述べています。しかし、実は、人々が思うほど、聖書は人の死後の世界がど のようなものであるかを述べていないのです。それよりも、聖書はその99パーセントが、人間がどのようにこの地上で生きるべきか、また神様がどのように私 たちの地上での生活に関して働かれるかということについて述べたものと言えます。これはちょっと驚きです。さて、死後の世界に関することばとして典型的な ものは、次のようなものでしょう。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、、、(ヘブル9:27)。
おそらく、天国と地獄に関して一番具体的に触れているのは、ラザロと金持ちの話しでしょう。
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持 ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラ ハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しか も、そのふところにラザロが見えた(ルカ16:19以降)。
この話しの中では二人の人が死んで、その後入って行った所について書かれています。これは、イエス様の話されたもので、普通はたとえ話とよばれる種類の話 しです。しかし、たとえ話というのは、「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、、、」といった感じで、固有名詞を使わないのが普通ですが、上のたとえ話 では、「ラザロ」という固有名詞が使われているのが非常に不思議です。あたかも、イエス様が実際に起きた話しをしておられるように思えます。そして、どう いう訳か、金持ちの名前は述べられていません。いずれにせよ、この話しによれば、死んだ人間が死後も存在しており、入る場所が同じではないことが分かりま す。一つは「アブラハムのふところ」、もう一つは「ハデス」です。
その金持ちは、ハデスで苦しみながら、目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかもそのふところにラザロが見えた(20節)。
どうも、ハデスというところはあまりいい所ではないようですね。一方の世界から他方の世界が見えるようんです。誰がそこにいるかということも分かるみたいですね。
彼は叫んで言った。「父アブラハムさま。わたしをあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません(24節)。」
この話しはまだ続いていきますが、ハデスというところは、とにかく、苦しくてたまらない所のようです。人は死後も存在し続け、地上での生活の記憶があって、地上で会った人のことを覚えていて、互いに誰であるのかも分かるようです。
もし、こういったことが本当であるとしたら、大変なことです。誰も、そんなハデスには行きたくはないですからね。それにしても、この金持ちはどうして、 このような所に入れられてしまったのでしょうか。またこの後どうなるのでしょうか。それはまた、次の機会にしましょう。ただ、次のようなみことばがあります。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それ は、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死 もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた、これが第 二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた(黙示録20:12-15)。