安息日礼拝説教サマリー

浅井導牧師

5/4/2024 「死と復活」No.6

聖書箇所: ガラテヤ 2:20、ヨハネ 21:15-17 など

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉(からだ)にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです(ガラテヤ 2:20)。

これは、パウロが自分のことを、どのような霊的現実における者としてみなしていたか、その彼の信仰の告白です。彼は、以前の古い自分から、キリストにある新しい自分へ生まれ変わりました。その変化は、彼が「キリストとともに十字架につけられ」、またよみがえったことによって起きました。

そして、その霊的現実の移行は、彼がまだこの地上で「肉(からだ)にあって生きている」間、どんな違いをもたらしたでしょうか。もしその変化がなかったとしたら、彼の言っていることは実質のない、単なる気休めであったことになります。その質問に対しては、以下がその答えです。

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、 キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです(2 コリント 5:14-15)。

この移行による一番の変化は、その生きる目的にあります。以前は「自分のために」生きていたのが、キリストにつく死と復活の後は、「自分のために死んでよみがえった方のために生きる」ようになりました。「自分のために」生きるのが「肉」 です。つまり、自己中心で自分のことばかりを考え、自分が人生の王座にいる状態です。キリストの死と復活と一体化した者の肉は、十字架につけられて死んでしまいました。

安息日礼拝の説教サマリーから一部を抜粋して掲載しています。 全文はストアからご購入できます。