聖書箇所: マタイ 4:13-17、ヨハネ 5:39-44 など
これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためで あった。すなわち、
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、 ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、 死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから(マタイ 4:14-17)。」
光として来られたイエス様のミニストリーの始まりを、マタイはこ のように語っています。暗やみの支配者であるサタンの国が征服され、御子の支配による光の国の到来です。マタイがこの光の国を「天の御国」と呼んでいるように、それは目に見えない霊的な国です。そこへ入るには、どこかの門を通るのではなく、暗やみの世界に背を向けて、光なるキリトのところに来ることが必要です。それは「悔い改め」の門です。罪から来る罪責感が 人を光なる神の臨在から遠ざけ、暗やみの世界へ押しやります。しかし、私たちが自分の罪を認めるならば、その罪は赦され、罪責感から解放されて、私たちは光の国に入ることができます。それが「悔い改め」です。これは心の奥底の霊で起きることで、イエス様は以下のように言われました。
あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい(ヨハネ 12:36)。
わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです(46節)。
「信じる」とは、目には見えないものを心の霊で受け入れることなので、「光を信じなさい」という表現から、この光が霊的なものであることが分かります。また「わたしを信じ る者」とは、その光として来られたイエス様を信じる者のことです。イエス様は、ある時、ユダヤ人らに次のように語られました。
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません(ヨハネ 5:39-40)。
この最後の「わたしのもとに来ようとしません」ということばに注目して下さい。彼らは聖書の詳しい知識を持つ人たちで、しかも、この時イエス様と顔と顔とを合わせて語っていながら、霊的には、彼から遠くにいて、彼のところに来ていませんでした。またイエス様は、ある時群衆に向かって次のように言われました。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎ が来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです(マタイ 11:28-30)。
(説教サマリー「光の子ども」No.7より)