聖書箇所: マタイ 1:16-17、2:1-12 など
… マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご 自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が 預言者を通して言われた事が成就するためであった。
「見よ、処女がみごもっている。 そして男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」
訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である(マタイ 1:21-23)。
「インマヌエル」とは「神が私たちとともにおられる」という意味ですが、それ が、光輝く星が天から降りて来て、人間の中に光として住むようになったこととどう いう関係があるでしょうか。マタイはあとで、イエス様の宣教の始まりを、以下のよ うに描写しています。
そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリと の境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた 事が、成就するためであった。すなわち、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、 ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、 死の地と死の陰にすわっていた人々に、 光が上った。」この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから(4:13-17)。」
この前提には、人々が暗やみの世界に住むようになってしまったという事実がありま す。それが罪の結果であることは明らかですが、そもそも暗やみとは霊的にどういう 状態のことを言っているのでしょうか。ヨハネは次のように言っています。
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキ リストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽り を言っているのであって、真理を行ってはいません(1 ヨハネ 1:5-6)。
まず、神の本質が光、言い換えれば、神の霊としての臨在そのものが光であるということです。すなわち、神の臨在のある所には光があり、神の臨在のない所はやみだということです。と言っても、神の造られた世界には、天においても地において、また地の下においても、どこに行っても神はそこにおられ、その臨在のない所はなく、すべてが神に知られ、神の定めにより、その許しの中で動き、成り立っています。問題は、天使なり、人なり、自由意志を持つ者がその臨在を認めるかどうかです。上のことばでは、その神の臨在の意識を「神と交わりがある」という表現で表しています。人が神と交わりを持って生きる時、その人は 神の臨在を持ち、光の中を歩んでいます。それは、単に神がおられることを信じる有神論者がみな、光の中を歩んでいるという意味ではありません。
(説教サマリー「光の子ども」No.5 より)