聖書箇所: ガラテヤ 6:14、ピリピ 3:10-14 など
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい(27節)。」
トマスにとっては、復活したイエス様が現れたことより、自分が八日前に大口たたいて、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と他の弟子たちに言ったことを、イエス様がそこに おられて聞いておられたという事実でした。イエス様のことを 奇跡を行う力を持っていても普通の人間のように考えていたトマスにとっては、彼が自分のことをすべて知っておられたということは驚きでした。ペテロも、同じように、彼を知らないと三度言う自分のことをすべてご存知であったことを知ってショックでした。実は、主が自分のすべてを知っておられることを 知ることが、主を恐れることであり、それが聖書の言う知識の始まりです。
主を恐れることは知識の初め。
愚か者は知恵と訓戒を蔑む(箴言 1:7)。
主を恐れるとは、目に見えない、隠れた所におられる主を信じることです。目に見えない方の存在は、信じる必要があります。だからイエス様はトーマスに言われました。
信じない者にならないで、
信じる者になりなさい(ヨハネ 20:27)。
これは、「信じない者」から「信じる者」に、その存在の仕方が変わることを言っています。単に「信じなさい」と言っているのではありません。トマスはすぐにイエス様に言いました。
私の主。私の神(28 節)。
それまで、トマスの目に真のイエス様の姿が見えていなかった のは、彼がいつもこの世界の現実の中だけで生きていたからです。アブラハムで言うならば、天の星を数えて、「あなたの子孫はこのようになる」ということばを受け入れる前の状態です。彼はすでに主に従って、主の示す地へ入って来ましたが、 まだ「信じる者」ではなく「信じない者」でした。彼が目に見える自分の現実だけを見て生きていたからです。