ダヴァールインターナショナル

1月21日 支部オンラインシェアの報告(横浜、カナダ、甲府支部)

日時 1/21(日)13:05ー13:30
メンバー ダニエル、ハンナ、マリア

ダニエルが祈って始めました。

マリア✳︎
石を置くということが私の中で曖昧であったが、今日の礼拝のハガイ書のところを通して、今まで自分の家のことでいっぱいいっぱいだった彼らが、神様の言葉によって励まされ、神殿の再建にとりかかったことから、じぶんの生活をすて、神の国とその義とを第一に求める、教会を建てあげることを第一として動き始めることだと理解した。

みんなは、石を置くということをどのように理解しているかと質問しました。

ダニエル✳︎
ハガイの話からすると、シュティアの上に火皿を置かれ、それはイエス様の象徴。石を置きなさいということで、思い出したのが、”わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。” マタイの福音書 10章37節イエス様よりも家族を愛するのは良くない。家族の現状ばかり考えてるとイエス様のこと後回しになってしまう。順番を間違っては行けない。家の教会の話から、自分に当てはめると、家庭礼拝の時間が、家事などの都合からずれてしまうことがあった。これでは人が集まれない。反省した。家の教会の時間をきちんと決め、そのための準備をしていきたい。学校の生徒との通読のことも考えていきたい。

ハンナ✳︎
石について完全にわかってないところがあるけど、契約の箱がなくなってイエス様の命の贖いがあって、死んで復活されたというその真理の上にたつことが石を置くことだと理解している。
最近家でも職場でも自分の家に合わせようと引っ張ってしまうことがあった。イエス様だったらどうするかなと考えて動いていきたい。

報告:ダニエル

1月13日 聖日礼拝のシェア「兄妹の家」浜松⇄ロサンゼルス

13日 ロス時間9時より、礼拝のシェアをラインにて行いました。

ラザロ、マルタ、マリア

ラザロが祈り、シェアを始めました。

ラザロ
真理がいくつもあるよ。イエスキリストの十字架での死と復活以外にも。礼拝で聞いたこのことばが残り、やっぱりそういう真理が分かり出すと、この世でやって来たことが馬鹿らしく、現実生活に惑わされずに生活できると思った。

マリア
もう1回改めてキリストの使節の真理を聞いて、最初の説教で聞いたように、自分が流していく存在になったこと。人間はそういう存在に造られた。以前はわからない点があったけど、そういうものが取り除けられて、少し心に入った。

マルタ
やはりすべてが霊的現実を話しているから、どれだけ自分が現実ではなく、その霊の現実に比重を置くか、信じることがすべてだと言うこと。自分の発することばですべてが決まる、ことばの大事さを教わった。

最後に各自が祈り終わりました。

報告/マルタ

1月13日 支部オンラインシェアの報告(福岡⇄メンフィス)

福岡1/14 13:00、メンフィス1/13 22:00(40分間)
参加者:ダビデ(福岡)、モーセ(メンフィス)

最初のお祈り:モーセ
(モーセ)1/13の礼拝から、私は神さまからは全て許された存在ではあるが、サタンが過去のことを突いてくる声に耳を傾けない事を常にリマインドする。神様から与えられている役目を行うためにも。また実際に世的な思いを無くすこと。サタンが「仕事のこと気になるだろ」と語りかけて来る。生活の中で仕事のことばかりを優先にしない様に、教会のことをやっている時はそれ集中したい。

(ダビデ)雄々しくあれということですね。

(モーセ)信仰の上に固く立てでもありますね。

(ダビデ)今まで祝福を求めることは良くないことだと思っていた(クリスチャンは貧乏であるという考えから抜けられなかった)が、先週のメッセージで「求めることは神様から好かれることだ」と聞いて、もっと祝福を求めていこうと認識が変わった。祝福あれとお祈りしたら新しい仕事が決まった。ただ生活のためではなくて、そこでお金を貯めてキャンプに行くというのが目的。毎回お金でキャンプに躓いたので今回は躓かない。

(モーセ)そこは信仰の訓練の一つだったのでは?

(ダビデ)信仰は自分にかかっているので。あとは悪い告白をしないように。最近、楽しそうに仕事をしたり、キャンプに行く夢を見ることがある。

(モーセ)強い願いをイメージさせられてるのかもしれないですね。

モーセからキャンプで学んだことを簡単に一通り説明と証を話しました。

祈り:ダビデさんにより、今週から始まる仕事がみこころでうまく行く様に支えてください。資金を貯めてキャンプに行ける様に助けてください。ダヴァールの兄弟姉妹が用いられる様に。

終わりのお祈り:ダビデ

報告:モーセ

11月25日 聖日礼拝のシェア(浜松⇄ロサンゼルス)

25日 ロス時間9時より、礼拝のシェアを行いましたので報告を送ります。

参加:ラザロ、マルタ、マリア

マルタが祈り、シェアを始めました。

ラザロ
見えないところで、神様が助けてくださっている。昔助けられたことを忘れないでいなさい。すがる、お願いして助けてもらったことを忘れてしまうと、交わりが薄くなる。自分が助けられたことを覚えて、自分が目に見えないところで神様が助けてくださっていることを意識して行きたい。

マリア
神様に感謝することを忘れない。自分が赦されている、神様と和解している。和解のために来られた。自分が赦されていること、それが神の愛。
愛を与えて下さっている存在だと改めて知った。

マルタ
クリスチャンは、赦された者。先に赦された者として、赦す人種になった。クリスチャン=赦す者。それが他の人たちとの違いだとわかりました。

最後に各自が祈り終わりました。

報告/マルタ

11月26日 支部オンラインシェアの報告

日本=11/26 午後1時、バンクーバー11/25 午後8時、メンフィス11/25 午後10時
山梨:ナオミ&ルツ 香港:アビゲイル 甲府:マリア メンフィス:ダビデ バンクーバー:ハンナ
司会、始めのお祈り:ルツ

マリア:
クリスチャンを迫害をしていたパウロを許しくれたようにヤコブと戦った時に神様が負けてくださったように、全知全能であり、全てのものの上にある方が、被造物である人間のために、歩み寄ってくださったその愛の大きさに驚いた。 パウロが第一コリントの9章で “私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。” これからも学ぶように、自分は、イエス様にあって、イエス様と同じものを頂いているが、だからといってえらぶったり誇るのではなく、裁くのでもなく、イエス様が罪人であった時に受け入れてくださったように私もそういきたい。

ダビデ:
メッセージから喜びの大切さが自分に適用できた。自分自身が喜んでいなければ、神様が私といつも共いて働かれている事が伝わらない。それでは使節として遣わされるという意識が有っても実質が現れない、他の人たちと同じ生き方になってしまう。喜びは自分でする事と教えられているので、自分を見たりして喜べないような時に「喜べ!」と自分に言い聞かせていく。

アビゲイル:
今日の礼拝は、単純に神様に感謝して喜んでいた。来年、定年年齢60を迎えるが、延長雇用が無いことが、先週はっきりした。これまで神様が支えてくださっていたことを感謝し、また定年後も祝福してくださることを信じ感謝した。礼拝終盤で、人との和解という話で思い出したのが、先々週、定年退職し、日本に帰国した元同僚が会社に来た。実は、彼女には、伝道したことがあるのだが、受け入れず、彼女の方では、私の事をダメな上司と常々思っていたようで、その伝道の後、私たちの関係は悪くなった。彼女が来ることに、気の重さを感じていたのだが、会って「私も来年は、定年だよ。でも、その後も香港に居るつもり。」と話をしたら、「東さんが居るなら、また香港に遊びに来ます。」と言ってくれた。私もヤコブのように、エサウとの和解は成り立たないのでは?と恐れていたんだと分かった。自分の方で、”彼女は受け入れなかった。私を嫌っている、だから私も嫌いだ!”という気持ちもあったのだと思う。
自分が赦されたように、全ての人を許し、受け入れていく。

ハンナ:
今週は悪寒やら頭痛やらありました。が、リーダーズ会の恵みはUnlimited乗り切ることができました。また弱い人に弱くあれというパスターの言葉が、印象に残りました。社内で、スタッフに寄り添いましょうという話がでたばかりでした。出来ないという意見があがり、互いに寄り添うことを学んで行こうと、マタイ22:39を送りました。その部分については、返事はいただいてません。

ナオミ:
ここの所、家もパタパタしており、クリスチャンなのにと言う思いがありました。本日のメッセージにあった、神様がして下さった事を思い出す事も出来ずでした。この状況でしたので、こんしはダウンをしてしまい反省をしました。知人で悩んでいる方がいるので、トラクト、カードなどを届けます。

ルツ:
今週、家でも仕事でもトラブルが多かったですが、そういう時は神様に全てのことを預けられていないことに気がついきました。今日のメッセージから、神様との和解について伝えていきたいです。また、これまで神様が自分にしてくださったことは本当にたくさんあるので、そのことも伝えていきます。

お祈り
これまで神様がしてくださったことに感謝をしてお祈りいたしました。
聖書:テサロニケ人への手紙第1 5章16節~18節

最後のお祈り
ダビデ

(山梨支部・婦人)

11月17日 金曜聖書朗読の報告(浜松⇄ロサンゼルス)

17日(金曜日)
参加:ラザロ、マルタ、マリア

マリアが祈り、1分位異言で祈り朗読を始めました。

聖書箇所2コリント7章

ラザロ
全体的に2人がシェアしたことが書かれているのかな、と思うが何を言ってるのか良くわからなかった。現実を見ると恐れが出るので、見るところを見ないでやりましょう。と言ってる。
ちょっとわかりかったので、他の人達のシェアから学んだ。

マリア
1節の箇所から、キリストにはあっての約束というのが、前の箇所を読んでみて、新しくされた。御霊をくださったと言うことなので、見えるところによってではなく、信仰によって歩んで行く。パウロが言っている、自分の生活に見えるところではなく、見えない約束を信じることを改めて見直した。

マルタ
9と10節で書いてある、悲しみが伴う悔い改めが神様の御心であることが、本当にそうだと言える。神様はことばで悪いところを指摘するが、すべてを益にして、成長させてくれる。ただの悲しみはそこで死にもたらすと書いてあるが同意する。次の希望につながらない。

最後に各自が祈り終わりました。

報告/マルタ

11月4日 聖日礼拝のシェア(浜松⇄ロサンゼルス)

昨夜、聖日礼拝のシェアをラインにて行いました。報告を送ります。

参加:ラザロ、マルタ、マリア

マルタが初めの祈りをして、シェアを行いました。

ラザロ:
今日のところでは、新しく学んだのは、義の奴隷と罪の奴隷、どちらかに分かれること。放蕩息子の例を挙げて、自分でありたい、自分が無い、自由が無いと理解して、奴隷(義の奴隷)から抜け出るため神様から離れてしまうが、結局は死を迎える。若い時、親から束縛からされていると思って、離れたいと思う気持ちが、神と人間、親と子の関係と同じ。奴隷は囚われているという意味ではなく、器だと言うことを学んだ。

マリア:
先週と同じことを言っていて、捧げる動機を言っていて、心の中だから他の人にはわかりにくく、新しくされた生き方につながっていて、自分の為、他の人の為に生きることが、この捧げる動機にもつながっている。古い生き方に慣れ親しんでいる考え方、身についてしまって、恵みを忘れてしまうことが多分にある。自分の毎日の生き方に、適用していきたい。

マルタ:
人間は奴隷、器としての目的で、神様が創造したけど、その目的とはかけ離れた、全く逆の生き方を殆どの人間がしている。自分も真理を知らなかった。世の中は1日でも早く自立することを教えて、それができる人を美化することを説教の中で聞いて本当だなと思った。自分もそうやって生きて来た。自分は器にすぎず、どちらかの器になることを良く理解したい。イエス様の十字架の死と復活の贖いが罪の赦しばかりを自分の中で占めていたけど、今日の礼拝での最後のことばから、貧しさから富む者になった真理、自分をそういう者として見てなかった。その真理に信仰を持ちたい。豊かになって、人に捧げることが神様の御心。イエス様の死を無駄にしない生きた方をしたい。

最後は、1人ずつ祈って終わりました。

報告:マルタ

11月5日 支部オンラインシェアの報告

本日のシェアの内容です。

山梨:ナオミ&ルツ 香港:アビゲイル 甲府:マリア メンフィス:ダビデ バンクーバー:ハンナ

ダビデ:
先週からの礼拝で引き続き「自分のために生きる」ことをやめようと学んでいる。今の場所にいる事、「遣わされている」意味を教えられている。会社の永年の同僚で以前から病気や怪我が多い人がいる。クリスチャンで前は教会に通っていた事があるがしばらく離れている。その人にはみことばカードを送ったり、事ある毎に神様の事を話し、最低日曜は許会に行くとか聖書を一緒に読む事など勧めていた。今年の初めに元々悪い膝を悪化させて車椅子で出勤してたが、それもできなくなり手術をした。その間もみことばを送っていたが、状態も良くなり先週から歩いて出勤できるようになった。その方には神様が癒してくれたこと、この事を周りの人に話していこうと話した。その方が神様を更に求めて教会に行く事を期待している。キャンプのポスターを街の店に貼った。みことばが広まっていくように。

ルツ:
今日の礼拝から「動機」について考えました。古い自分の考え方が抜けていないところがあって、合理的にとか、効率良く…と考えてしまうことがあります。そのことが、神様のためになっていれば良いですがまだまだ自分のために動いていると気がつきました。神様のためにはどう行動するのが良いか、今後はそう考えていきたいです。

ナオミ:
今週、神様の愛から逸脱した行いをしてしまいました。イエス様を着たことで、イエス様に沿った行いをしなければならない所、沿う事が出来なかったです。今後は、イエス様だったらどうされるのか?都度考えながら行動して行きます。悔い改めと共に、大切な事を教えて頂けた事に感謝申し上げます。

ハンナ:
人の徳を高める生き方を学んでいます。以前、同僚の子に、自分の事しか考えていないよねと言った言葉が、引き金となってこの一ヶ月余り関係が悪くなっている。裁かない、相手を成長させる言葉を話す、赦し合う。ヨブのように、相手のために祈る。

マリア:
生きたいと思うことと生かされてる、この2つの違いがよくわかりました。 今週、仕事の問題をどのように解決しようかとそれに頭を使ってました。その状態は、生きたいと自分の力で生きている状態だとわかりました。 礼拝で、私は神様に生かされてるとまた思い起こされた時平安が来ました。 そして礼拝中、仕事の問題が解決しました。 みことばの上に立つ大切さ、それを思い起こすことができる礼拝の機会が与えられてることに感謝します。

アビゲイル:
サタンは、”自由”を餌にして、人を釣る。”放蕩息子”だった私は、すっかり騙されていた。その自由とは、サタンなりの自由=死であって、神様の与える自由とは違う。キリストにあって、義とされた私は、神様の恵みをエンジョイできる自由を持っている奴隷だ。それを誇る歩みをする。神様のため、人のために何かすることを負担に感じてしまう私だが、自分が自由であることを楽しんで、全ての事をやっていく。

祈り:
イスラエルxパレスチナ問題を見ていて、どうしてこんな事になっているのか?神様、なんとかしてください、と思うが、全てが、自分のために生きることに問題の発端があると思う。停戦に、私たちが直接かかわることはできないとしても、私たちの身の回りで起こる問題も、全てはこれが原因と思うので、私たちから始めるように、人を思う生き方ができるよう祈りました。

立つみことば:(特に3節)
ヤコブ4章
2 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

報告:アビゲイル(香港支部)

10月28日 聖日礼拝のシェア(浜松⇄ロサンゼルス)

聖日礼拝のシェアの報告を送ります。

土曜日夜9時より、ラインにて行いました。
参加:ラザロ、マルタ、マリア

マリアが祈り始める。

マリア:
自分だけのことを考える生き方の始まりや、今までの生き方、考え方は過ぎ去って新しくされたこと聞いてもっと理解できた。自分の生活に適用していきたい。

ラザロ:
今日の礼拝でも、信仰をしていくには、イエス様が十字架に掛かって復活したことを信じることが出発点で、そうでなくては、毎日の生活に流されて、飲んで、食べてで終わる。信じるかどうかがすべての基本。そのことを信じてなかったら何も始まらない。信じるかどうかに掛かっている。

マルタ:
自分の欲、自分の為に生きていた古い自分から、新しい、神様の心を願って生きていく者になったと信仰をもつこと。自分自身が古い自分を悔いて、新しくされたいと願い、その新しい生き方に価値を見出さなければ、このような真理を何度も聞いても働かない。

最後は、1人ずつ祈って終わりました。

報告:マルタ

10月28日 支部オンラインシェアの報告

本日のシェアーの報告です。

山梨:ナオミ&ルツ 香港:アビゲイル 甲府:マリア メンフィス:ダビデ バンクーバー:ハンナ

日時:10/28 (日)13:00ー13:30

初めの祈り: ハンナ

ナオミ
礼拝の感想。先週、自身の事が中心となってしまい、その事にさいなまれた一週間でした。
本日のメッセージを聴き、今週は神様を求め、みこころに沿って神様の働きができるよう祈り、感謝をして過ごしたい。

ルツ
今週、職場の先輩に「なぜクリスチャンになったか」と聞かれたので
その理由や、宗教ではなく神様と共に生きるという生き方です、と伝えました。
その先輩はこれまで、そのような人が周りにいなかったため、驚いたそうで、黙ってしまい、話が終わってしまいました。私の中にまだ話すことへの恐れがあったなと反省しました。
もっと神様に祈り、いつでも力強く神様のことを伝えられるようにしたいです。

アビゲイル
罪は、生き方の間違いだと分かった。自分のために生きることや価値観を変えられてしまったことは、死んで洗いきよめられなければ、変えられない。自分のために生きることでの産物は何か?物質なら消えて無くなる。満足感?いや、感情面では、もっともっとないとという不安であったり、人と比べるねたみの心だったり、逆に自分にとって苦しいものだ。それなのに、クリスチャンになってからも、そういった生き方をしている。だからアップダウンがある。神様の恵みがある!という信仰をしっかり持って、人のため、イエス様のために生きる。

マリヤ
自分のことだけを考えて生きる人と相手のことを考えていきる人の違いを学んだ。クリスチャンであってもすぐ変わることはできない。みことばや礼拝によって清められていく。聖日礼拝が始まる前は、なぜか部屋の汚さに気がつく。掃除をいつも以上にしたくなる。いつも不思議だなと思っていたけど、聖霊様がそうしたいという心を入れてくれるんだろうなと思った。礼拝に参加することや、聖書を読むことで、聖霊様がやりたい思いを入れてくれる。それによって神様に近く変えられていく。その機会が礼拝や聖書を通して与えられていることに、ありがたいと思った。

ダビデ
先週の礼拝メッセージでこの世の人生を終えた後のことが色々語られていた中で、魂の品性(考え)はそのまま持っていく事が言われていて、それについて考えさせられた。もし明日人生を終えるとして今持っている品性で神様の側に言って良いだろうか。クリスチャンになったばかりの頃は、私は自己中ではないと思っていたが、聖書でイエス様を知るうち、また今日の安息日礼拝でも「自分のため」の生き方を聞いて、いかにそれが当てはまっていたか知らされている。それらが「いつか変わる」でなくてその時々に変えていきたい。

ハンナ
今日の礼拝より、自分の為でない生き方について考えた。私は旦那に対して、彼は自分のことしか考えてないとイライラしてしまう。体が思うように動かないのだから、気持ちに余裕が出来ないのも仕方ないと自分に言い聞かせても、平安になれないことがある。が、今日の礼拝で、 私はこんなにやっているのにとか、自分、自分(Me, Me)は私側なんだと気づいて、気づけたことで、気持ちが楽になった。

祈り: ヨハネ 3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

最後の祈り: アビゲイル

報告:ハンナ(カナダ支部)