支部の活動

2月2日 支部のシェア報告(バンクーバー・横浜支部礼拝所)

オンラインシェア

日本:ダニエル バンクーバー:ナオミ
2/4(火曜)日本:22時半 バンクーバー:5時半

始めの祈り:ダニエル

ダニエル:
この前の日曜日礼拝のメッセージで、いろんな真理が心の中に纏まれてきて、感謝です。何ヶ月前に、「三つの規定」を学んでるのですが、そのコンテキスト(文脈)が少しわからなかった。今回、改めて、なぜその規定があるのは、いつもクリスチャンは霊の世界でサタンとの戦いがある、だから、とわかった。それで、「世的」という言葉は、ただ世の人達と同じことを求めてるのだけじゃなく、生温いという意味もある。また、世的のことに関して、何年前の冬のキャンプが始まる直前に、パスターとまさみ先生が、「世的な言葉をキャンプ中、言わないこと」、皆に注意をした。その時、私は、「聖書以外の話、絶対してはならない」という意味でその注意を受けた。だけど、何年か後、同じ話しを聞いて、その世的な話しとは、どの人と話ししてても、自分の中に、神様を心の中にベースがないと、世的になる、ともっとわかった。ただ聖書だけの話をすることじゃない。もっと広い意味があった。とにかく、世的にならないことは大事、と改めてわかった。

ナオミ:
礼拝から律法学者、祭祀らは戒めとは、心を尽くし、命を尽くし、神を愛し、自分の隣人を愛するという知識はあり、イエス様はその彼の答えにたいして、”それをしなさい”と言われた。”しなさい”、イエス様の言われる”する”とは何なのかを求めていきたい。詩篇51:17 から、神様が砕かれた心を求めていることを学び、自分は自分の行いに対して、反省し、その都度落ち込みます。イスカリオテのユダは悔いたが、イエス様の光から離れてしまっていました。義理父の目の手術がうまくいきませんでした。義理母は疲れやで否定的になり、その中で義理父はすべてを委ねている強さがあり、イエス様の憐れみの心を義理父から感じ取れました。イエス様がまず先に憐れんで下さったことを忘れないようにしていきます。

終わりの祈り:ナオミ

2月2日支部のシェア報告(福岡・名古屋支部礼拝所)

2月2日(日)20:00〜

聖日礼拝メッセージからのシェア

(エステル)
世はあなたがたを憎みます・・・のみことばからの話で語られていたこと、世の基準じゃなくて(世の中の人でも愛し合っている)、イエス様の愛はそれに比べられない。神様の愛の大きさは世の基準とは違う。その愛を知った私は、その愛で愛するということをしているということ。ダヴァールに来てから、一つ一つ教えてくれることが、私には他では聞いたことがなかったようなことで、でも私の中ではそれはすごく本物だと思う。それが神様の愛の基準と繋がった。愛することに限らず、どういうふうに生きているかということについて教えられている。神様の基準は世の中の基準とは違う、高い基準。ダヴァールに来た時に本物だと思った、そのことを思い起こした。パウロは神様を信じるものとして一生懸命クリスチャンを迫害していた。良心ではわかっていたけど、自分は神様のためと良心に蓋をしてた、イエス様に出会って蓋をせずに悔い改めるということになった。それを聞いた時に、私もクリスチャンとして神様を信じて、神様のためにとか言っているけど、1週間の中にイエス様を伝えていなかった、1週間は自分の良心に蓋をして生きていたことと同じだなと悔い改めた。自分だけ救われて終わりじゃいけないなと思わされた。救われていながら、神様のことを伝えなかったらその後に責めが来る。それじゃいけないと思わされた。

(フルダ)
私も愛の基準について教えられた。兄弟姉妹や周りの人々を愛せなかった、やらなかった、できなかったというとき、自分の基準だからできないはずだと思った。自分の基準じゃできないということが改めてわかった。イエス様の基準、イエス様がその人を愛しておられるということ。イエス様はその人のためにも十字架にかかって死なれたということで自分の気持ちは関係のないこと。自分を捨て自分の十字架を負ってついて来なさい・・・のイエス様のことばとも繋がった。目標はイエス様の基準。伝道したい。

1月24日 オンラインシェア報告(福岡・横浜支部礼拝所)

時間:21:00〜-21:30(日本時間)
参加者:エリサベツ、ダニエル

ダニエルが最初に祈りしました。

<シェアの内容>

ダニエル:
キャンプで一つ学んだ、大きな祝福は、自分の「霊的コンディション」は今どうゆう状態、把握出来ること。前、この真理にあまりにも注目はしなかった。自分の体の健康、いつもどうゆうコンディション、いつもわかるけど、霊的コンディションも、いつも同じであるはず。このことにあんまり注目しなかったことによって、アップダウンの原因にはなっていました。あと、これに関連して、「自分にかかってる」ということ、神様にかかってるわけじやない。つまり、自分自身でできること、沢山ある、とわかった(みことばを読むこと、祈ること、心配を追いだすこと)。だから、自分の方から神様に近づくこと。

エリサベツ:
霊的コンディションが悪いと、神様から祝福受けることができない。私にとって、日曜日は、リセットの日(世からの清め)。キャンプのメッセージを聞くと、自分自身の信仰にかかってると分かった。神様の問題ではなく、私にかかってる。例えば、アブラハムが最初、子供のことに関して文句してたが、最後テントから出て、信じました。それで、二つ目は、「毎日、誰かにイエス様の事伝えること」を、目標にしてます。それは、「伝道しなきゃ」じゃなく、どの会話でも、イエス様と繋げていくこと。

エリサベツが最後祈りしました。

1/20 オンラインシェア(ロサンゼルス&バンクーバ)

ロス:レベッカ バンクーバー:ナオミ

始めの祈り:レベッカ

レベッカ:
メッセージから 哀れみの心を閉ざすこと、自分の意思である。私にとっては、自分の意思を環境のせいにしない、神様の御心に合わせること。私たち一人ひとりができること、そしてすべきことを、イエス様の愛に基づいて行っていくこと。一番心に残ったのは、霊的な必要を満たそうとする人が少ないということ。哀れみの心を閉ざすことに慣れてしまった現代社会。私もそのひとりである。そのために霊の目がもっと開かれるように。自分に与えられた存在意義を考える。聖書のことばを通して、永遠の希望を伝える。神に祈りつつ、具的な支援や行動を起こす。悲しみの中にも、神が与えてくださる希望と喜びがある。すべてのことを益としてくださる神様と歩みつつ。人の痛みはそれぞれに違うもの、でも決してそれをtake adantageする機会ではなく、謙遜さを忘れず、与えられたものをシャアする。神様はどんな時でも良き神様。

ナオミ:
9日の祈祷会より、マタイ16:5から弟子たちはパンを忘れたこと、そのことに心を留め、全く的はずれな話し会いをしていたことが読み取れ、イエス様、神のみこころが分かっていないことがわかりました。またイザヤ58:8がとても心強いみことばです。これは自分のことではなく、他の人のことを考え、義を第一に求める心によって成されるということを心に留めます。他の支部で、みことばを求めている人が集い、またその新しく来た人らにより、その支部が喜んでいる様子が、こういうことなのですね。