聖書箇所: 1 コリント 15:45、ヨハネ 11:17-44 など
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外 に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです(ガラテヤ 6:14)。
この世界にはいろんな種類の誇りがあります。自分の持ち物、 社会での地位、家柄、学歴や業績、それに自分の賢さや才能、 スタイルの良さなど、ありとあらゆることを人は誇りとしま す。しかし、上のみことばは、キリストにある者に対して、 「主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と戒めています。それはイエス・キリストの死のことを言っていますが、なぜそれが私たちにとって誇りになるでしょうか。死なれたのはキリストであって、他の人のしたことをなぜ私たちが誇るのでしょうか。
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです (1 コリント 11:26)。
これは、私たちが教会で受ける聖餐式の意味について、パウロ がコリントの信者たちに教えるために語ったことばです。この「主の死を告げ知らせる」ということばに注目して下さい。
聖餐式は、イエス様の最後の晩餐の再現で、彼と私たちが霊的に一つになったことを宣言するものです。上の「主の死」は、 単に彼の死ではなく、彼を信じる者すべての「死」です。私たちの主は、全部を捨てて十字架に付けられたました。全部とはこの「世界」のことで、そこに存在するすべての誇りのことです。キリストが世界に対して十字架に付けられたということは、私たちも世界に対して十字架に付けられました。また世界も私たちに対して十字架に付けられ、もはや存在しないもの、 意味のないものになってしまいました。そして、この現実に入れられた人は、次の現実に移行して行きます。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる 信仰によっているのです(ガラテヤ 2:20)。