3/9(日曜日)聖日礼拝後の交わり
礼拝後の交わりの様子です。礼拝の感想、週の間の起きたことなどをシェアして、そこから自分の生活への改善、さらに良くなるために適応を兄弟姉妹で話しています。
3月2日:日曜礼拝のシェア報告
<ダニエル>
私は、この日曜日のメッセージにより、何が無関心な事で何がそれではないかをもっと知る事ができて感謝します。特に、自分が知ってる人(近くにいる人)、必要な時はその人を注意しないといけない、愛じゃないよ、と改めてわかった。学校、生徒との間でそれがよく起きる (そのこを注意しないといけない、でも時々迷う)。また、レビ記19章からは、同じように、「隣人」とは、実際誰か、もっと知ることができて、その定義がメッセージで与えられた。それは、自分が知ってる人達。今まで、全く(または、ほぼ全く)知らない同僚に対して、職場で伝道しようとしてたが、上手くいかなかった。それは、神様が自分が知ってる人、会話したことある人、一緒に仕事したことある人に対してするべきだと教えてくれた。
<エリサベツ>
ねんごろの正確な意味を初め知りました。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない(レビ記19章17節)戒めは裁くのではなく、心を込めて相手に忠告する事。自分の事のように相手の事を思いやる。見て見ぬ振りをしたり、相手に嫌われるのを避けるため同調して忠告しないならば、それは罪となる。
うわべだけの関係に愛はないから。少し前に『愛はおせっかい』と言う言葉を聞いた。何度も何度も辛抱強く、決して諦めない。その時イエス様の事を思い出した。私たち人間が好き勝手に生きているのに、決して諦めず、いつもそばに居て一緒に喜んだり悲しんだりしてくれて、励まして、喜ばせてくれたり守ったりしてくれている。イエス様の愛は計り知れないけれど、イエス様の愛に触れて心が満たされ嬉しい気持ちでいっぱいになった。この事をイエス様の愛をイエス様と一緒に出会う人みんなに届けます。
日時:3/10(月) バンクーバー:午前6時、日本:午後10時
ハンナ:
1列王記13章の話をこれまでは何か深い意味があるが難しいように思い読んでいたが、日曜日のメッセージの中で、「神の人は自分が死ぬと知っていて、ベテルの預言者の家に行った」と聞いて、この神の人の話が自分がダヴァールで20歳前後の頃、体験したことと重なった。牧師夫人に何度もメールをして、長い返事をもらって、そのうちエスカレートして大きな態度を取ったりした時も、牧師夫人は私が解放されることを第一に優先して、怒ることも無視することもなく有益なことだけを話し続けてくださった。神の人が食事をして騙されたことを愚かだと思って読んでいたが、そうやって私は解放された。神様の預言者が自分にそのようにしてくださったことを忘れず、自分もそのようにされて知ったイエス様の愛の素晴らしさを見つめて、毎日を歩まなければと思わされた。
ナオミ:
2月23日の礼拝より、第一列王記の神の人の話の引用が続いています。今回の発見はマタイ9:13がまさしく神の人とイエス様の行いについて語っていることがわかりました。今週は職場で起きている渦の中でぐるぐる回り、見える環境の中でうごめいてました。昨日どどっと入ってきたまさみ先生のラインが自分の気持ち切り替えの助かりにもなりました。