2024年5月
学びの支部シェア(山梨支部⇄横浜支部)
◾️5/5(日) 13:30〜14:20
◾️参加者:ルツ、レべカ、ハンナ
◾️内容:ドリル「死と復活 NO.3」からのシェア
まず、ドリル1ページ目から3人でシェアしました。
その後、個人的適用から一言づつシェアしました。
・レべカ:肉の部分をとっていくことは訓練。もちろん自分で気をつけることも必要だけど、神様に委ねて成長していくとき、自分が変えられることを、ちょうど先週の礼拝メッセージからも学んだ。自分の力だけでなんとかしようとしないことを、忘れずにいこうと思う。
・ルツ:今日の礼拝メッセージから、ペテロが罪責感で泣いた、それでもイエス様がペテロを支えてくださったことが印象的だった。肉によって動き、罪責感がきても、いつもイエス様が支え続けてくださる。
・ハンナ:イエス様と共に死んで復活したという信仰にいつも立っていきたい。肉をなくすことは訓練だけれど、自分を空っぽにすることで聖霊様がその器を満たし、神様が用いてくださる。
一度祈って終わったあと、ルツさんよりドリルの2ページ目について質問があるとのことで、ルツさんと私だけ残って、もう少しシェアしました。
4/27 支部オンラインシェアの報告(バンクーバー&メンフィス)
4/27 土曜日、バンクーバー午後8時、メンフィス午後10時
始めのお祈り:レべカ
(ダビデ)霊的には古い自分は死んでしまったことを最近の礼拝で深く考えさせられているが、やはり自分にも言われる様な肉の部分がまだ残っていることに気付かされること、今まで自分で直そうとしてできなかったこと思いつく。最近は気づいた時にちょっとした時間でも祈ることを心がけている。
(レべカ)どんなことを祈るのか。
(ダビデ)その時によって違うが、気づいた時に祈るのは、清めのこと、体の癒しのことが多い。
(レべカ) 今日の安息日礼拝でも少しお話されていて、ドリルの問いのユダは赦されず、ペテロは赦された違いがなにかという質問が難しくずっと考えています。ユダもペテロも内容は違いますが、両者ともイエス様を裏切り、ユダもペテロも悔いています。イエス様の死と復活にはユダの裏切りは必要で、神様の計画であったとも取れます。その二人の違いを考えることが学びです。ユダはサタンと一つとなり、世の考えで自ら死を選び、それはしてはならないことであり、ペテロはイエス様と一つとなり、イエス様とともに生きました。私には生きることが大切というメッセージでもあります。
(ダビデ)ユダと他の弟子のことで私たちに適用できるのは、神様より赦されたことを受け入れたか、受け入れなかったのかの違い、またイエス様の十字架の死と復活を受け入れたクリスチャンとノンクリスチャンの生き方の違いと同じと理解します。
課題の祈り:
(ダビデ)悦子さんの昇天式で奉仕者が用いられみこころが行われること。参加者に喜びと希望を知ることができる様に。
(レべカ)私の周りにいる心や体に痛みがある人達にイエス様の打ち傷によって癒されたのみことばが成就する様に。
終わりのお祈り:ダビデ
4月28日 支部のシェアのご報告(名古屋⇄福岡)
4月28日(日)
20:00~20:45
聖日礼拝からのシェアをしました。
(ハンナ)
自分自身のことを振り返った。
ルカ22章、イエス様がこれから死んでいくんだけど、弟子達はその時まで誰が一番偉いかと話していた。その中で最後の晩餐が進行していき、イエス様は28節のところで「あなた方はさまざまな試練の時にもついて来てくれた人たちです。王権を与えます。」と言われた。そのことを考えると、すごいなと思った。その後は結局ペテロがふるいにかけられること続く。ペテロにとっては裏切ってしまい、なんてことをしてしまったとなるけどイエス様はそれを見越して信仰がなくならないように祈ってる。立ち直ったら兄弟達を力つけてやりなさいと言われている。ペテロはどん底に落ちるが、イエス様の祈りがあって恵みで立ち直ることができた。私ももうだめだ立ち上がれないと思う時があった。立ち上がることができたのは同じように恵みを受けたんだと思った。だからこそ自分の力ではできない。自分はただの器だということがわかった。ガラテヤ6:3のことばが本当にそうだと思った。イエス様が死んでくださったのは自分がまだイエス様のことを知らない時にそうしてくださった。イエス様の方は愛してくださっていた。私としては表現できない気持ちになる。
(マリア)
ルカの22章、私も同じようなことを思っていた。イエス様が父なる神様に祈られた。でも答えがない。イエス様苦しまれた。弟子達は眠ってる。その弟子達のためにこれから死んでいかれる。苦しみを受けておられる。そのイエス様のことを思った。そのイエス様に私はいのちをもらった。弟子達と同じように、イエス様のことをわかってない。けど、イエス様は、そのために地上に来てくださった。環境や人のことばから喜びがなくなることもある。神様にある自分を知ること、みことばと聖霊に信頼すること、必要なことを、改めて思った。