本日のシェアーの報告です。
山梨:ナオミ&ルツ 香港:アビゲイル 甲府:マリア メンフィス:ダビデ バンクーバー:ハンナ
日時:10/28 (日)13:00ー13:30
初めの祈り: ハンナ
ナオミ
礼拝の感想。先週、自身の事が中心となってしまい、その事にさいなまれた一週間でした。
本日のメッセージを聴き、今週は神様を求め、みこころに沿って神様の働きができるよう祈り、感謝をして過ごしたい。
ルツ
今週、職場の先輩に「なぜクリスチャンになったか」と聞かれたので
その理由や、宗教ではなく神様と共に生きるという生き方です、と伝えました。
その先輩はこれまで、そのような人が周りにいなかったため、驚いたそうで、黙ってしまい、話が終わってしまいました。私の中にまだ話すことへの恐れがあったなと反省しました。
もっと神様に祈り、いつでも力強く神様のことを伝えられるようにしたいです。
アビゲイル
罪は、生き方の間違いだと分かった。自分のために生きることや価値観を変えられてしまったことは、死んで洗いきよめられなければ、変えられない。自分のために生きることでの産物は何か?物質なら消えて無くなる。満足感?いや、感情面では、もっともっとないとという不安であったり、人と比べるねたみの心だったり、逆に自分にとって苦しいものだ。それなのに、クリスチャンになってからも、そういった生き方をしている。だからアップダウンがある。神様の恵みがある!という信仰をしっかり持って、人のため、イエス様のために生きる。
マリヤ
自分のことだけを考えて生きる人と相手のことを考えていきる人の違いを学んだ。クリスチャンであってもすぐ変わることはできない。みことばや礼拝によって清められていく。聖日礼拝が始まる前は、なぜか部屋の汚さに気がつく。掃除をいつも以上にしたくなる。いつも不思議だなと思っていたけど、聖霊様がそうしたいという心を入れてくれるんだろうなと思った。礼拝に参加することや、聖書を読むことで、聖霊様がやりたい思いを入れてくれる。それによって神様に近く変えられていく。その機会が礼拝や聖書を通して与えられていることに、ありがたいと思った。
ダビデ
先週の礼拝メッセージでこの世の人生を終えた後のことが色々語られていた中で、魂の品性(考え)はそのまま持っていく事が言われていて、それについて考えさせられた。もし明日人生を終えるとして今持っている品性で神様の側に言って良いだろうか。クリスチャンになったばかりの頃は、私は自己中ではないと思っていたが、聖書でイエス様を知るうち、また今日の安息日礼拝でも「自分のため」の生き方を聞いて、いかにそれが当てはまっていたか知らされている。それらが「いつか変わる」でなくてその時々に変えていきたい。
ハンナ
今日の礼拝より、自分の為でない生き方について考えた。私は旦那に対して、彼は自分のことしか考えてないとイライラしてしまう。体が思うように動かないのだから、気持ちに余裕が出来ないのも仕方ないと自分に言い聞かせても、平安になれないことがある。が、今日の礼拝で、 私はこんなにやっているのにとか、自分、自分(Me, Me)は私側なんだと気づいて、気づけたことで、気持ちが楽になった。
祈り: ヨハネ 3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
最後の祈り: アビゲイル
報告:ハンナ(カナダ支部)