11月4日 聖日礼拝のシェア(浜松⇄ロサンゼルス)

昨夜、聖日礼拝のシェアをラインにて行いました。報告を送ります。

参加:ラザロ、マルタ、マリア

マルタが初めの祈りをして、シェアを行いました。

ラザロ:
今日のところでは、新しく学んだのは、義の奴隷と罪の奴隷、どちらかに分かれること。放蕩息子の例を挙げて、自分でありたい、自分が無い、自由が無いと理解して、奴隷(義の奴隷)から抜け出るため神様から離れてしまうが、結局は死を迎える。若い時、親から束縛からされていると思って、離れたいと思う気持ちが、神と人間、親と子の関係と同じ。奴隷は囚われているという意味ではなく、器だと言うことを学んだ。

マリア:
先週と同じことを言っていて、捧げる動機を言っていて、心の中だから他の人にはわかりにくく、新しくされた生き方につながっていて、自分の為、他の人の為に生きることが、この捧げる動機にもつながっている。古い生き方に慣れ親しんでいる考え方、身についてしまって、恵みを忘れてしまうことが多分にある。自分の毎日の生き方に、適用していきたい。

マルタ:
人間は奴隷、器としての目的で、神様が創造したけど、その目的とはかけ離れた、全く逆の生き方を殆どの人間がしている。自分も真理を知らなかった。世の中は1日でも早く自立することを教えて、それができる人を美化することを説教の中で聞いて本当だなと思った。自分もそうやって生きて来た。自分は器にすぎず、どちらかの器になることを良く理解したい。イエス様の十字架の死と復活の贖いが罪の赦しばかりを自分の中で占めていたけど、今日の礼拝での最後のことばから、貧しさから富む者になった真理、自分をそういう者として見てなかった。その真理に信仰を持ちたい。豊かになって、人に捧げることが神様の御心。イエス様の死を無駄にしない生きた方をしたい。

最後は、1人ずつ祈って終わりました。

報告:マルタ